今月の余談


じんじん(永井迅さん)の追悼会を行いました
追悼会のビラはここをクリックしてください 


そばの会、27年の歩みとじんじん
―じんじん(永井迅さん)の追悼会の報告―
 

 2025年89日、ビラまきの拠点でもある綾瀬で、じんじんこと永井迅さんの追悼会を行いました。51名の方が参加してくださいました。

 じんじんは2023年8月22日、病のため68歳で無念の最期を遂げました。やり残したことも少なくないと思います。その一つが『そばの会』です。彼は死刑廃止を願う仲間たちと共に27年間(当時)地道に旗を振ってきたのです。じんじんを亡くしたことは私たちにとって大きな痛手でした。私たち『そばの会』メンバーと有志は追悼会を行うことで、しっかりと彼の意志を引き継ぎ、その目的である「死刑制度廃止」に向け決意を新たにしました。

 追悼会は『そばの会』創始メンバーの一人である平野良子さんの話から始まりました。『そばの会』の母体ともなる獄中者組合の話から獄中処遇の問題、東京拘置所の中で行われる死刑執行の問題、更に獄外事務局が行う集中面会などについても言及されました。1996年の死刑執行があったときにこれ以上執行はさせたくない、執行がなくなるような動きを作っていきたいという思いが『そばの会』の成り立ちだった、と話しました。それが19975月に綾瀬の駅前で最初のビラまきをするきっかけになったそうです。

 次に、スライドショーの上映がありありました。このスライドショーは写真を動画的に動きのあるものに編集し、バックミュージックは台湾少数民族の哀歌的「Voice of Silence」で構成、大まかであるもののじんじんの半生を描いたものでした。じんじんは25歳頃まで三里塚に通い、その後1980年には山谷に支援として関わりました。そこからじんじん物語が始まります。その間、日本国粋会金町一家との激烈な戦い(佐藤満夫さんが刺殺され、山岡強一さんが銃殺されました。また、じんじん本人も凶器準備集合罪で逮捕されました)、山谷越冬闘争の支援等々を経て30歳代に突入します。それ以降は東アジア反日武装戦線に関わった人の個人救援などを行いながら、死刑廃止運動や他の救援運動などにも関わります。2016年に『そばの会』は多田謡子反権力人権賞を受賞、というように年代を追って2023年に亡くなるまでの彼の半生を映像と簡単な説明文で構成しており、視聴に訴えかけるものでした。

 その後、NPO法人監獄人権センター代表(CPR)の海渡雄一弁護士からのビデオメッセージが上映されました。CPR発足当初から、当時『統一獄中社組合』のメンバーであった永井さんと大山さんには大変お世話になったこと、CPRのニュースも永井さんが作ってくれていた等を話し、本当に感謝していますと述べていました。

 次に、旧・底辺共闘(準)の津川勤さんからじんじんと山谷との関わりについて話がありました。じんじんと津川さんは山谷近くのマンション(底辺マンションと言われていた)で共同生活をしていたこともあり、そこから早朝の寄せ場に通っていました。じんじんは事務ができる人で、裏方みたいなことを真面目にやる人でした。彼の独特なしゃべり方、目の動きは印象的でしたが、ヘビースモーカーでもあったのです。当時は暴動と武装闘争が関心事であったと振り返りました。

 インパクト出版会の深田卓さんからは、じんじんは1990年代以前には三月工房で写植の仕事をし、その後制作室マノを立ち上げたが、時代の趨勢で仕事もなくなり、週2回インパクト出版会の仕事をすることになったと話してくれました。また、じんじんが発行していた個人誌の『はずれ』や『言いたい放題』なども紹介し、笑えない冗談も言っていたと懐かしんでいました。

 休憩の後は、太田昌国さん。じんじんとちゃんと出会ったのは2005年に(大道寺幸子・〈後に〉赤堀政夫基金による)「死刑囚表現展」の運営に関わった時だったそうです。太田さんの故郷・北海道には海に面して松浦武四郎の像があり、じんじんの出身地である三重県には松浦武四郎記念館(松阪市)がある、そうしたことがきっかけになって民族・植民地問題やアイヌ問題についてじんじんと話をするようになったと語ってくれました。
 続いて、統一獄中者組合の頃から『そばの会』初期まで共に活動してきた高安イツ子さんから、なぜビラまきの拠点を綾瀬にしたかが語られました。また、最初の頃のビラは高安さんが走り書き的に書いたものをじんじんがちゃんとしたビラにしてくれていたと語り、彼は真面目にきちんとやる大切な人でした、と結んでくれました。

 その他にも多くの皆さん(約10名の方)からじんじんとの貴重な思い出やエピソードなどをお話しいただき、じんじんの幅広い交友関係を改めて見聞した思いでした。
 いずれにしろ、この追悼会を梃子に死刑廃止運動に更に弾みがつくことを願い、報告に代えたいと思います。
                                               2025821日 文責:軽部哲雄

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今月の余談(2024年6月22日)

 6月のビラは私(T.K)が担当しました。ビラ作成の過程でいろいろ気づかされることもありましたので、その裏話としてお読みいただければ幸いです。
 死刑制度を維持する理由として政府は、(内閣府が)5年毎に行っている死刑制度の是非に関する世論調査を重要視しています。それはビラ本文にも書いた通りですが、最新の調査(2019年)では80.8%もの人々が死刑制度を容認しています。政府はこれを最大の根拠にしています。ですから「世論」に拘泥する限り、この制度に関する議論は深まらないだろうし廃止など決してありえないだろうと感じました。

以下の表は2020年1月17日付 朝日新聞からの引用

 

 そこで、死刑を廃止した国々のその経緯を調べてみました。世論を根拠にして廃止した国などないだろうと直感していたからです。同時に死刑制度を廃止したのは戦後で(1945年以降)、それまでは万国一様に死刑を定めていたものと思い込んでいました。ですから、6月ビラの原案には「戦前までは世界中の全ての国が死刑を行なっていました。死刑のない国などなかったはずです。」と自信をもって書いてしまったのです。 ところが、それを読んだ「そばの会」の仲間から「ほんとにそうかな?」と疑問を投げられたのです。実は、そう断じたのは調査した結果ではなく、(恥ずかしながら)私の単なる思い込みであることに気づかされたのです。
 急遽、実際に調査した結果、約11カ国が戦前(1945年以前)から死刑を執行していませんでした。それは以下の国々です。()内は死刑廃止年です(Amnesty Internationalの調査)。 
コスタリカ(1877)、アイスランド (1928)、ポルトガル (1867)、サンマリノ(1848)、スウェーデン (1921)、 スイス (1942)、ウルグアイ (1907)、ベネズエラ (1863)、 コロンビア(1910)、ノルウェイ (1905)、パナマ (1903)

 いずれにしろ、これらの国々は議会等を通じて法律もしくは憲法に明記することで死刑制度を廃止してきました。世論を重視したからというわけではありません。戦後は多くの国々が死刑制度を廃止してきましたが、いずれの場合も人道的な観点から議会で議論され法制化されています。先ず、多数の世論が廃止を要求し、その結果廃止になったというパターンは今のところ見つけることはできません。これからも調査していきたいと思いますが、あったとしても少数なのではないでしょうか。
 この国の政府が「世論」を盾にとるのは、政府自らが死刑制度を維持したいからであろうと思います。人々に対して(政府が)生殺与奪の権を握るということは、絶対的な支配力や権力を持っていることの証しであり、それを誇示することで支配力をさらに強めようとすることに他なりません。そういう意味でも、絶対に手放したくない「権利」なのでしょう。誘導的な設問にしてでも世論調査を続け、それを根拠にしたい理由はそこにあるのかもしれません。
 いずれにしろ、諸外国が死刑制度を廃止した経緯や植民地支配との関連などをもっと調べる必要があるものと、いまさらながらに痛感しました。(T.K)

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今月の余談(2024年2月17日)

 そばの会、2月のビラまきは17日(土)午後4時からでした。
 開始まもなくご高齢とおぼしき女性の方から声をかけられ、「今日は少ないのね」と言われました。確かに、この日は遅れる方もおり開始当初の人数は充分ではありませんでした。それにしても、私たちは月1回しか登場していないのですが、よく見てくれているものだなと感心しました。ビラまきの効果は受け取ってもらえるビラの数だけで決められるものではないとつくづく思いました。                
 
また、終了直前の5時20分ごろのことでした。今度は20代の若者が私の目の前に現れました。そして私を見つめ、「かわい~い」と叫んだのです。私は一瞬動揺しました。まさか高齢の私が、と耳を疑いました。まあ、悪い気分はしなかったのですが、それは私の誤解であることに直ぐ気付きました。というのも、彼の視線は私の顔ではなく、私が着用していたゼッケンにあったからです。「そばの会」宣伝用のゼッケンだったのですが、そこにはバンクシーの絵も描かれていました。何のことはない、彼はこのバンクシーの絵を見て「かわい~い」と叫んだだけだったのです。究極の誤解でした。  
 その後、彼は待っていた2人の若者の所に戻っていきました。


 しかし、話はこれでおしまいというわけではありません。

ほどなくその若者が再び私の所にやってきて「ビラまきを手伝います」と言うのです。半信半疑の私は面白半分かなと思いつつも、10数枚のビラを渡しました。すると、本当に配り始めたのです。近くにいた高校生らしき2人が受け取り、通りすがりの方々にビラを差し出してくれているのです。ちゃんとやってくれているのです。
 ただ、残念なことにこちらの終了時間がきてしまいました。そこでその旨を告げ、もちろんお礼も述べて労をねぎらいました。若者は手元に残っていた2~3枚のビラを私に返そうとしたので、折角ですからと、手土産代わりに持って帰っていただきました。

 なお、この日は他にも50代と自称する上から目線の男性にも話しかけられました。ご高説は拝聴しましたので、ご満悦だったようです。

 と言うことで、この日は「余談」を語るにふさわしい一日となりました。(T.K)